パテルナ (Paterna)
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パテルナに人が定住していた最古の痕跡は、新石器時代と青銅器時代にさかのぼる. イベリア人も、防衛用の壁や住居の壁跡から定住が確認されている. ウァレンティア(バレンシア)、エデタ(リリア)、サグントゥム(サグント)で記された文献でローマ人の到来が示されている. パテルナとはラテン語のpaternusまたは、財産の社会的および法的地位に言及した『父に属する』に由来する. パテルナ市内にはマサマグレイへ伸びる水道橋の跡がある.
イスラム支配時代、パテルナには陶器製造の他、農業が盛んに行われていた. アラブ人たちの灌漑技術が導入され、農地ではコメやオレンジを栽培していた. 1237年4月、パテルナ住民は平和にアラゴン王ジャウマ1世を入城させた.
17世紀のモリスコ追放はパテルナ経済を減速させ、人口の急激な減少を招いた. アンシャン・レジーム時代、パテルナに積もり積もっていた政治的・社会的状況の悪化はさらに進んだ. 1769年布告の王令では、マラリアの発生を防ぐためコメ栽培が禁止された.
19世紀は農業が復活し、1866年には水道が敷設され、1881年には新しい市庁舎ができ、1888年には狭軌鉄道が敷かれた. 人口統計の上ではパテルナへの住民移動がみられた. バレンシアの中流階級のコテージや民家建設、防衛軍の兵舎建設があげられる.